ノンセンスの領域——『進撃の巨人』の生(レーベン)の否定としての巨人趣味
ブラックユーモアと並ぶ駕籠真太郎の特徴として「不条理なルール設定」があげられると思う。『パラノイア・ストリート』では変態的なルールに縛られた特殊な街を、探偵黒田と助手が訪れるという一話読み切り連載になっているが、このルールの非情なまでの徹底ぶりがブラックユーモアを呼び込む。つまり冨樫義博のゲーム設定をさらに倍加させ、厳格な規則が設定されたゲームのなかで、人間情緒などという不確定なものは一切認められず、ルールを破った場合は不条理に死んだりするのが通常運転なのである。例えば「びっくり黙示録」(『万事快調』所収)という『ギターを持った渡り鳥』の日活アクション・パロディーでは、アキラなる節穴のような不気味な眼をした男【図1】が問題を解決した町は次々とすべて押し潰されて消滅してしまう。それゆえ町民たちは何とかしてアキラが問題解決しないよう尽力するのだが、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)の抗いがたい力のようにしてアキラは難なく問題解決し、その町を消滅させる。盤上遊戯のコマが勝手に動き出すことができないように、登場人物たちがゲームのルールを変えることは不可能なのだ。
ここで解読に役立つのがエリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』(高山宏訳、河出書房新社、1980年)で、ルイス・キャロルとエドワード・リアのノンセンス作品における閉鎖システムの問題系を暴いた名著である。「ゲームそれ自体がつくり出す情緒以外にはいかなる情緒も認めないかわりに遊ぶ喜びをもたらし、外からの力を排し、目下のゲームに必須の運動を行うのに必要な明確に限定された領域を知性に提供する。これぞゲームなのだ」と論理学の厳密さを模倣したシューエルはまず定義する。
シューエルの卓抜な見解は、ゲームにおいては「小さいもの」しか扱えないという指摘である。「単純明快な要素に分解できそうなものだけが、遊びに向いているのである。我々の知性がいかなる活動に没頭するにせよ、それはまず相手を細かくしておかねばならない」(60ページ)。すると駕籠の『パラノイア・ストリート』に登場する「プロ分解士」原裸田銀子(はらだ・ぎんこ)の分解マニアっぷりは自己言及的な面が強い【図2】。
シューエルはノンセンスとはアナライズ(分析)する知性が極まったものだとしたが、このアナライズなる単語には「分解する」の意味もある。つまり細かく分けていくこと、小さくしていくことがデカルト以降には「分かる/分ける」ことと同義になった。よくよく考えれば小さなモチーフに執心して、そこからゲームをはじめるのが駕籠の特徴であることが見えてくる。「ごはんつぶ」(『異物混入』)では、ごはんつぶを角膜に接着剤でくっつけ、お箸で無理やり引き剥がすアンダルシアの米(?)ごっこに及び【図3】、
「ツブシカヤ」(『登校途中』所収)では何十年も血を吸い続けて腹がブヨブヨに膨らんだ蚊が出現し【図4】、
「虫歯」(『登校途中』所収)では女子高生の虫歯が突然変異して文明化し【図5】、
「歯医者」(『異物混入』)ではウエストランド井口の二重歯列をバロック化したような多重歯列が熾烈を極め【図6】、
「白い歯っていいナ」(『スカトロジー大全』)では肛門に歯が生えたアナルデンタータが出現し、「包茎狩り」(『異物混入』)では包茎の余った皮に着目してエッシャー「きずな」風の包茎の皮剥きが見られ、「口内炎」(『異物混入』)では偏食や睡眠不足で意図的に作られた夥しい口内炎がアートの域にまで高められ【図7】、
鼻水(『異物混入』)では美少女が鼻水を垂らしたら脳味噌までズルズル出てしまう【図8】……などなど、ほんの一部を集めてみただけで駕籠マンガの「小さなもの」は膨大なリストになると知れる。
しかし「小さなもの」に拘泥する作家には、取り扱い不可能なものもあるとシューエルは釘を刺してしている。
遊びには、生活の中の或る対象物に対してそれを意のままに支配しようという一個の周到な試みとしての側面があるらしいと知れる。……何かを支配しようとするのが遊びだとすると、遊びの領域はぐっと限定されてくる。人間は小さいし、その知性が相手にできる世界も小さい。コントロールできる相手など、実にたかが知れた数なのである。レビヤタン(大魚)のことにふれて、颱風の只中から神の声がヨブに向って何と言ったであろう。「なんぢ鳥と戯むるる如く之とたはむれ、汝のをんなどものために之をつなぎおくを得んや」(ヨブ記四十一の五)。大いなるものと戯れることはできないのである。特性上我々のコントロールの埒外にあるものたちと遊ぶことはできない。
(『ノンセンスの領域』、58ページ)
レビタヤンのような神聖な巨大さをもつものは、卑小な人間存在には弄ぶことが不可能なのであり、逆に遊ばれているのはこちら、釈迦の掌の上ということになる。しかし駕籠作品には巨人女が大量に出てくるではないか、と駕籠フリークならば反論するかもしれない。『輝け!大東亜共栄圏』では軍事兵器としての巨人女が、『超電脳パラタクシス』では奴隷として使役される巨人サードラが、「GODZILLA」(『人間以上』所収)ではゴキブリが支配する世界に核爆発で突然変異的に生まれた巨人女が出現するなどなど。
しかし巨人はすべてコントロール可能なものとして、調教され、モノ化され、兵器化され、背いた場合には殺害される。つまるところ駕籠ワールドにおいて巨人はコントロール可能な小人なのである。
好んで巨人を描いているからなのか、駕籠真太郎はよく諫山創の『進撃の巨人』と比較される、と私との対談で漏らしていた。とはいえ明らかに両者は別種のものだろう。シューエルの以下の反語が二人を明確に分かつ。「遊び道具は、小さいものでなくてはならない。明確な単位に区切りうるものでなくてはならない。これが要訣である。一体、生のどのくらいの部分がこういうかたちをとっているだろう」。『進撃の巨人』では作者の情動が渦まき、パースペクティヴは歪み、混沌として不定形な「生(レーベン)」が描かれている。卑小な人間を食らい尽くし暴走する巨人は「ノンセンスの領域」という壁を突破し、コントロール不能な夢、神話、狂熱、魔術、非合理の領域に触れている。しかし駕籠作品の厳密なシステムはそれらを一切許さない。また『進撃の巨人』は各登場人物たちがダイアローグ・激論を交わし、作者の単一の声をキャラクターたちの複数の声が裏切るというか、ミハイル・バフチンがドストエフスキーの小説に見た「ポリフォニー」の様相を呈している。それに対して駕籠マンガでは登場人物たちが作者に反抗するという事態は起こりえず、声はつねに駕籠真太郎のものとして単一化・統一化されている。これは数字によって作品を冷ややかに統御するピーター・グリーナウェイの素質にかなり近いものがある、と思っていたら本人から『数に溺れて』(1988)が一番好きですと言われてやっぱりか!と思ったのだった。
「至福と奈落とは共に、世界をなめつくすほどに燃え上がる激烈な生から生まれる」(『デーモン考』)というディオニュソス主義者の激飢餓(げきが)家・宮谷一彦が大喜びしそうな言葉からもっとも遠い地点に駕籠作品のクールなディスタンスは存在するのだ。生きる意味(センス)は剥奪され、荒涼たる無意味(ノンセンス)のシステムのなかに登場人物たちは放り出され、アリ地獄に落ちたアリを眺めるように、作者と読者にモノとしてじーっと観察される。駕籠には『アリ地獄VSバラバラ少女』なる作品があるように、また四方田犬彦が「ブニュエルは昆虫観察をするように冷酷に人間を見ている」と評したように、駕籠は観察者の立場を崩すことはなく、不確定な情動なり何なりを徹底して排する冷酷なまでの疑似科学的パースペクティヴを維持している。
地獄の機械
整理がてらシューエルの〈ゲーム=ノンセンスの領域〉の総括的定義を引用してみよう。
コントロールされた競合関係が宰領する閉じた世界にふさわしいもの以外は、いかなる情緒もここからは排除されているし…想像力、夢、共感、愛、詩といった総合をめざす傾向もそっくり締めだされている。…ノンセンスは個別的な単位の世界で、一才は操作の技倆と彼我の距離にかかっている。コントロールすることにかかっているのであって、コントロールされてはならないのだ。
(『ノンセンスの領域』340-341ページ)
駕籠真太郎は『リング』で真田広之の視点に立つことができない自らのスタンスを評して、「対象との距離があるから自分の漫画はホラーにならない」と私との対談で語っていた。たしかに駕籠マンガであれば間違いなく貞子はお笑いの対象であり、むしろ貞子を撮影しているメタ視点のほうが描かれるだろう(『カメラを止めるな!』的な)。ホラーとは情動をダイレクトに揺り動かすジャンルであるから、直接的にホラーを描かない/描けないとはエモーショナルな共感作用が働かないということで(ある意味それこそが最大のホラーだと思うのだが⁉)、これは高山宏のいう「俯瞰のエレジー」である。ディスタンスをもった視点が生みだすのは冷静と不能とパロディーであり、そこに通俗的な意味での愛や共感は一切生じることはない。高山が論理学者ルイス・キャロルのゲームやルールへのこだわりに見たヤバさは、そのまま駕籠真太郎のエッセンスをも抉り出す。「遊ぶほどに重たい個の意識を忘れさせてくれるとしてカイヨワに顕彰されたあの脱自の眩暈Ilinxとはついに無縁の遊びなのである。孤独を余儀なくされた個が、己の個を繰り返しなめずるための自虐の装置とは言うべきか。ディオニュゾスの恩寵に欠けたルドゥスの悲しみとは申すべきか。……関係の愛を遊戯の論理が、つながりの夢を自閉の現実が、裏切ったのだ。仰視のポーズを俯瞰の宿命が。Quelle âme est sans défauts? 玩具は悲しい」(『アリス狩り 新装版』青土社、1995年、84ページ)。しかし人間らしさを嫌悪する「独身者機械」(ミッシェル・カルージュ)の神話が、ここから立ち上がる。「綺想とエロスの漫画史」は独身者を見捨てることはないのでご安心ください。
「ゲームの規則」づくりに注力する駕籠作品では、当然ながら世界は情緒を廃絶してスラップスティック・コメディーのように機械化される。『アックス』155号(2023)の特集「駕籠真太郎の現在過去未来」では駕籠を形作ってきた映画が大量に列挙されているが、最初に来るのがローレル&ハーディのスラップスティック・コメディーというのは意味深長ではないか。「人間という滑らかな存在が機械化してギクシャクしたときに笑える」というベルクソンの名高い「笑い」の見解を俟つまでもなく、道化ほど世界をメカナイゼーションする存在はいない。山口昌男が『道化の民俗学』(新潮社、1975年)で語るように、道化とは「日常的感情に支えられた人間及び世界像の破壊なのであり、そこで人間は、徹底して「物」の集合体に置き換えられるのである」(24ページ)。すべてを浮動するモノに変えることで、新たな順列組み合わせを試みてオルタナティヴな新世界を捏造するのが道化なのである。
道化的世界においてはジャン・コクトーが「地獄の機械」と呼んだものが猖獗を極め、人間は『モダン・タイムス』のチャップリンのように歯車の中に囚われてモノ化されて翻弄される。ここで駕籠道化学がもたらした恐るべき(と同時にブラックすぎて笑える)マシナリー・イマジネーションの数々を列挙してみよう。「筋の真心」(『万事快調』所収)という美空ひばりパロディーでは、飛び降り自殺マシーンが出てくる。おっさんが橋から飛び降りるとクルリと一回転してもとの位置に戻り、また同じ愁歎場が演じられる。どこかで見たような似通ったシリーズものを繰り返すプログラム・ピクチャーの反復的メカニクスを暴き立てるハードドライな精神だ【図9】。
「快楽殿の創造」(『万事快調』所収)では潔癖症の女と、生身の女が嫌いな男を無理矢理に機械に接続して暴力的にセックスさせて「治療」する。「地獄のアプリ」(『異物混入』所収)では、スマホ画面のスライドで人間の顔を無理やりスライドさせ破壊する【図10】。
「構図」(『都市とインフラストラクチャー』所収)は手で長方形を作って構図すると風景を切り取ることができて、はみ出した部分は「ピクチャレスク」に切り取られて血を噴きあげる【図11】。
「脳下垂体の機械論的世界観に関する一考察」(『人間以上』所収)などはタイトルそのまま、機械論的世界観の極北であろう。士郎正宗の画風とサイバーパンク的世界観(および膨大なコマ外の解説)に「食糧不足だから貧乏人の子供を食えばいいじゃねえか」と言った世界的文豪ジョナサン・スウィフトの反生命倫理を加えたような妊娠中絶SFマンガである。死産した赤ん坊が股からはみ出てるにもかかわらず平然としている肥満女が出てくるが、人間のちんぽこや穴ぼこが宇宙に通じる開路であり、小宇宙たる人間の生も死も大宇宙のリズミックな円環の流れと繋がっているとした中世のバイオコズミックなカーニヴァル感覚はここでは消失している。駕籠マンガは字義どおりに「穴、文字、血液などが現れる漫画」なのであり、人間の肉体凹凸部はただそこにノイエ・ザッハリヒカイトなモノとしてあるだけであり、あとはそれをいかにコントロールするかの問題にかかっている。駕籠グロテスクは饒舌だが、ラブレーの笑いのように治癒力や有機的宇宙観をもつことがなく、極めてスウィフト的なドライでスカトロなブラックユーモアしか認めないある種のストイシズムに至っている。
最後にいきなり話が飛ぶが、ミンストレル・ショー(顔を黒塗りした白人が黒人を誇張して演じたアメリカの大衆芸能)が要求するバカな「ニグロ」を演じなければアフロ・アメリカンは白人国家アメリカでは生きていけず、そのルールにはむかったら『不思議の国のアリス』のハートのクイーンのように「あの者の首を切るのじゃ!」と命じられ殺される、そんなノンセンスなルール設定を私は『黒人音楽史 奇想の宇宙』という書物で徹底糾弾しているので、駕籠マンガの「ゲーム」「システム」の徹底ぶりに対して、いくらフィクションとはいえ問題を感じないわけではない。しかしその当のアフロ・アメリカンであるはずのフライング・ロータスが、駕籠真太郎に名盤『You’re Dead』のジャケットアートを依頼していることは、もはやヒューマニズムの命題でマンガを語れる段階ではないことを証明しているかもしれない【図12】。
時代はポストヒューマンとかポスト・ブラックネスとか騒いでいる。つまり1950年代の批評であるシューエルだけでは、どうも古臭い。黒人にだって人倫に悖るジャンクを愉しみ、排他的な耽美カルチャーを愛する人たちがいる。むしろ駕籠の情緒の無さ、生命倫理の無さこそが達成しうるマニエリスムのワイルドサイドというのが確実にあり、一方の極としてそちらを探求しないことには始まらない。究極「成長」が約束された有機的ストーリーに従属する『進撃の巨人』は「奇想」にまで高まっていくことはない。奇想マンガ家・駕籠真太郎は、映画においてゴダールがそうであったように、マンガの文法破壊者としてこそ評価されるべきではないか? あるいは「曼荼羅律動」展の解説文にあった「煩悩、苦、業のマニエリスム」とはいったい何を意味するのか? 後編ではその点を突き詰める。