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2021.10.29

写真家・大森克己が、いま会いたい人に会いにいく。

間部百合

いまボクの手元に『ULTIMATE LEZCATION manAbe YURI』と表紙に記された、DIY感に溢れたヒラ綴じのA4サイズの写真集があって、そのことばを発音してみる。ちょっと無理して日本語で表記すると、アルティメイト レズケイション とでもなるのか。LEZCATION の綴りは LEZCATaON とも読めるように大文字のIと小文字のaが重なっている。表紙は白く、中のページはとても薄いピンクのザラ紙に、白黒のハイライトが飛び気味の写真が刷られている。

写真はおそらくアメリカの西海岸であろう場所で、たくさんの美しいた若者たちがインティメイトな、くつろいだ表情で捉えられている。光沢の無い紙に光沢の無い技法で刷られているのにも関わらず、写真に写っている人物たちはとても輝いて見え、祝祭感に満ちている。後ろの見返しに「大森さん やっとできました 間部百合 2010.5.16」とあって、多分彼女から直接購入した際にサインをしてもらったのだろう。


大森克己写真集「サナヨラ」(愛育社)より

ボクが初めて彼女に写真を見せてもらったのは1999年のことで、彼女が勤めていた松濤スタジオを辞めたばかりの頃だった。ざっくりとした手提げ袋にサービスサイズのカラープリントが大量に入っていて、東京の風景の中に彼女とほぼ同世代であろう20代に見受けられる女性たちが生き生きと写っている。憧れのようなちょっと遠い距離感の眼差しと、同胞のような、家族のような近い距離感の眼差しがしなやかに同居している写真群はとても印象的だった。前者でとくに覚えているのが、自然光に満ちた和室の座布団の上に、シックな茶色のスーツを着たブルネットの白人の女性が足を斜めに揃えて座っている静謐なポートレートで、どこだったか東京の大学院で学んでいる人なのだときいたように思う。後者の写真でインパクトがあったのが、おそらく写真を撮っている本人が自分の足で女性の首を羽交い締めにして、その羽交い締めにされている女性は本気なのか演技なのか、ややコミカルな怒りの形相でレンズを直視していて正面からの強いストロボがその表情を照らしている、というもの。光の性質も被写体の佇まいもまったく違ったのだが、その手触りには共通するものがあって、自分の目の前に存在する人間を全肯定する強さと喜びが感じられ、同時にその眼差しがとても儚いものであることを自覚しているようにも思えた。それは巷にあふれている男性の欲望の表象としての女性像とほとんど関係がなく、ボクの知っている、あるいは勝手に理想化しているイメージとはかなり違う女性の姿に初めて出会う驚きがあった。そして、美しいものに触れた喜びもまた同時に、彼女の写真を通してわき上がって来たことをよく覚えている。

その写真を見せてもらう少し前、西麻布にクロマートというプロ向けのフィルム現像所があって、掲示板に「ロケ撮影アシスタントやり〼」ということばとともに、リラックスした笑顔の本人の写真が添えてあって、その下にちぎって持って帰れるように切り込みの入った携帯電話の番号が連なっていた。当時アシスタント志願のチラシは、よく現像所に貼ってあったが、自分の写真と共に、というのは意外に珍しく、小動物のような生命力のある目をしたその写真が気になって連絡を取り撮影を手伝ってもらったのがきっかけで、それから2、3年のあいだ、よく仕事を手伝ってもらっていて、彼女自身が写真家としてスタートを切ったあとも、一緒にお茶したり、酒を飲んだりしていろんな話をした。お互いの家族のはなし、ともだち、好きな人、仕事で出会った面白い人、音楽、旅、本、性、教育、政治、そしてもちろん写真のはなし。彼女はボクより10歳ほど年下なのだが、その頃、自分は父親になったばかりの頃で(35歳の時に娘が生まれた)家族のあり方のことを逆戻り出来ない形で考えなければならず、彼女は彼女でこの社会のなかでそろそろ自分のやるべきことを決めなければ、という意味で若く、ちょっと違う意味ではあるが、2人とも新人としてもがいていた時期だったのかもしれない。

 

近年の彼女は活動、作品発表の場を拡げていて、様々な雑誌媒体での撮影の仕事、国内外での写真展などを精力的に続けているので、皆さんも目にしたことがあるかと思う。「ボーイズラブ」をキーワードに「男性の視点、女性の視点が自然発生的に異なるものになってしまう」ことについて追求するリソグラフ作品 「光よりもはやく/boys love/Cyborg fe 」(2018 Studio 35分 東京)、「SUSURRANDO UN SECRETO ひみつのささやき」(2019 Instituto Superior de Arte ハバナ、キューバ)、「ドイツ国立歴史博物館での「ホモセクシュアリティーズ」展はいかにして実現したか。」というキュレイターのビルギット・ボソルド(Birgit Bosold)さんへのインタヴュアーとしての仕事(http://normalscreen.org/blog/schwules1)、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース公演『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』(2021)のポスターなど多岐に渡っている。

 

「あの頃に比べたら、多少なりとも成長したと思いたい」と笑いながら間部百合はいう。
「そりゃ成長してるだろ。っつーか、細胞全部入れ替わっちゃってるだろ」とボク。
「いやあ、なんか蠅が同じ場所をずっと飛び回っている感じで」

 1年半ぶりに会う彼女は、いま起きたばかりという風情で、髪を後ろで束ね、胸に zen hiker と記された、飼っている猫の抜け毛が少し目立つ黒いTシャツを着て現れた。有栖川宮公園を散歩して写真を撮って、その後、広尾駅の近くのカフェで徒然に話をする。いま取り組んでいる「文学的」なポートレート、自分の大切にしているものに名前をつけることの難しさ、解剖学者の本を読むことと実際に人間を解剖する時のメスの感触の違いとか、技法の追求に熱中するあまり俯瞰でものを見ることを忘れそうになる件、社会の構造の中で弱い立場の人が一方的にトラブルを背負い込まされるはなし、普段でたらめなことを言っていて急にまともなことは言えないというはなし、複雑なことを簡単に要約することと複雑なものを複雑なまま見せるということ、などなどいろんな話題が次から次へととまらない。

「まあ、いつだってきついんですけど、ヴァージニア・ウルフの正しさじゃなくて、ウルフのせーかーいーーーーっ!っていう、ウルフが書いているモヤモヤした世界、その空間にいたいんですよ。言いたいのは、ここで喧嘩したいんじゃなくて、この空間に居たいんですよ」

「でも、誰だって何かを覚えている。わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ。タクシーの中の太ったご婦人。では、何が問題なの(とボンド通りに向かいながら自問した)。この身はいずれ跡形なく消え失せ、目の前のこれはわたしなしでつづいていく。それの何が問題なの?妬ましい?でも、死がこの肉体の絶対的な終わりでも、それでも何かが残るはずだと信じるなら、これがつづいてくれるのはむしろ心慰むことではないの?ロンドンの通りに、物事の消長の中に、あそこに、ここに、わたしは残る。ピーターの何もかも残る。互いに相手の中に残る。わたしは確実に故郷の木々の一部だし、あのつぎはぎだらけの醜い屋敷の一部だ。そして、まだ出会ったこともない人々の一部でもある」(ウルフ「ダロウェイ夫人」土屋政雄訳 光文社古典新訳文庫 p21)

「わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ」っていうのは間部百合のことばなのかウルフのことばか区別がつかなくて、ウルフが流石なのは、この小説が書かれた1925年にウルフがまだ出会っていなかった間部百合が、いま、ここでウルフの一部にちゃんとなっている、というか、ウルフも間部の一部になっていて、ということかもしれないな。

 大坂なおみが試合後に記者会見をやりたくないと表明したはなしの流れから、ボクが撮影したオウム真理教がアーレフと改称することを発表した記者会見のはなしになって、メディアの有様のはなしになり、ガールフレンドや奥さんがどうすればヒステリーにならずにいられるか?という問いかけがあったり、自分が呼ばれないパーティーのこととか、個人の外見は一体誰に帰属するのか、とかあちらこちらへ、変拍子でことばが行き来する。

「マッチョは嫌いなんですけど、趣味とか仕事での意地の張り合い合戦、みたいなことは大好きなんですよね」と笑う間部百合は、カメラやレンズのスペック、写真のプリントの技法、デジタルデータの作り方など、とても研究熱心で、いまでも分からないことがあると彼女に相談することがあって、そのあたりはかなり頼もしいのである。アシスタント時代からその態度は一貫していて、コンタックスRTSという一眼レフカメラ のファインダーを覗きながら「あー、このクリアな抜け感がたまらないですよ!」なんてことも言っていた。ボクが撮影に熱中している最中に、何が必要だったのか忘れてしまったけれど「おーい、まなべー、あれとってくれない?あれ!」というと「おおもりさん、あれじゃ分かりませんよ」とクールに言い放つアシスタント。「いや、まなべさあ、いま、ここ、これ、なんだから、つぎはあれに決まってるだろ」と反論すれば、いまの間部百合なら静かに「はい、これですね」と差し出してくれるかどうかはまったく分からないが、「和歌の本歌取りって元祖インテリ文学オタクの意地張り合戦だよな」というはなしになったあと「こうやって楽しいはなしをたくさんして、でもほとんど忘れちゃうじゃないですか。そういう忘れちゃうはなしが好き」といつまでも話は尽きない。

 別れ際に「covid19 のおかげで2020年より前にやったいろんなことが、ちょっとだけ古く感じちゃったりするよな」というと「いいじゃないですかあ、新しいことが出来て!」とケロッという間部百合。 LEZCATION っていうのは EDUCATION と韻を踏んでいて、ATION っていうのは動詞につく接尾語で、~した結果として生ずる状態な訳だから、LEZCATE あるいは LESCATE という動作から学べるものは、ボクにとっても、セクシュアリティを問わず多くの人たちにとっても、じつはたくさんあるように思えて、なんせ教育と韻を踏んでいる訳で、おまけに ULTIMATE で究極で、なかなかに含蓄深いことばだなあ。2021年の夏のある日に久しぶりに会った友人とただ雑談するよろこび、あるいは、 アルティメイト レズケイション。

大森克己

写真家
1963年、兵庫県神戸市生まれ。

1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞(ロバート・フランク、飯沢耕太郎選)を受賞。

近年の主な個展「sounds and things」(MEM 2014)「when the memory leaves you」(MEM 2015)「山の音」(テラススクエア 2018)など。

主な参加グループ展に東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(東京都写真美術館 2013)「GARDENS OF THE WORLD 」(Museum Rietberg, Zurich 2016)などがある。
主な作品集に『サナヨラ』(愛育社 2006)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー 2011)『心眼 柳家権太楼』(平凡社 2020)など。

YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や「BRUTUS」「MUSICA」「花椿」などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。


1997年から2022年まで様々なメディアで発表してきたエッセイ、ノンフィクション、書評、映画評、詩、対談などにコロナ禍の日々を綴った日記を加えた、言葉、記録と記憶の一冊『山の音』(プレジデント社)を7月28日刊行


photo by フォートウエノ