『02 落合由利子 [前編]』の記事はこちら
人類月面到着の逸話から、そういえばボク達は1963生まれの卯年だよな、なんて話をして 「宇宙を基準に考えて作品が作られているっていうのはカッコいいじゃん」 と写真集に賛辞を送ると「あのね、ちょっと変に思われるかも知れないけれど」と落合さんは大好きだったお祖母さんの話をしてくれる。
「お祖母ちゃんがね、なんというか 『庶民的な悟り』を開いた人でね、宗教家でもなんでもないんだけど。広島生まれで、浄土真宗が盛んな土地で、南無阿弥陀仏ね。私がこどもの頃は、もう広島じゃなくてうちの近所に住んでいて、私、その祖母の話を聴くのが大好きだったの。それでね、私の母が中学3年生で、祖母が50歳のときにね、お祖母ちゃん 『生きて行く意味が分からなくなった』 って家族全員に告げて、尊敬できるお坊さんの説法を聞くために後をついて3年間、旅をして廻ったのよ。お祖母ちゃんがそのことを家族に宣言したときに、私の母は、お祖父ちゃんのことが、もう怖くて怖くて、卓袱台をひっくり返すくらいの勢いで怒るのかと思ったら、何も言わずにお祖母ちゃんを送り出したのね。季節の変わり目に着物を取り替えに帰って来るだけの3年間。で、お祖母ちゃんは私に話してくれるの『ゆりこや、旅をすればするほど分からなくなっていくんじゃ』って。3年経ったある日、お坊さんの説法を聴いた後『生きていられない、苦しい』その時とつぜん、身体がグラグラっと揺れて、身体が揺れながら、それを自覚しながら、自分じゃない声で念仏を唱えはじめたんだって、それで、何のために自分は生きているんだ、っていうことが、この広い大宇宙の中に生かされてる、って思えたんだって。そのことがあってお祖母ちゃんは家に帰ったの。私は『この広い大宇宙の中に生かされていたんだ』と、空をぐるっと見上げるようにして言う時のお祖母ちゃんの顔が大好きで。その顔が見たくて、お祖母ちゃんに何度もこの話をせがんでたの。」 「えっとね、お祖母ちゃんは1901年生まれ」
「時間の流れにずっと違和感があった」という落合さんから、このちょっと不思議なお祖母さんのエピソードを聞くのは、まったく自然なことに思え、ふとコーヒーカップの横の落合さんの掌が目に入って、ボクは手相の読み方なんてまったく分からないのだが、強力なオーラが発せられているのを感じ、それを彼女に伝えると「そういえば、香港の占い師に 『あなたは世界にひとつしかない花だ』 なんて云われたことがあったけど、そんなのみんなそうだよね!」と笑う。
今回、落合さんに会いたいと思ったのは、ボクが見たことが無かった彼女の卒業制作の写真集を見せてもらいながら話をしたかった、というのがひとつ。そして、ANB で見た映像作品のなかで、ベルリンの壁が崩壊したときに、いてもたってもいられなくなった、と彼女が語る、その 「いてもたってもいられなく」なったということの、もう少し深いところ、詳細を訊ねたいと思っていたのだった。しかし、写真集『WINDOW’S WHISPER』 を見て、このお祖母さんのエピソードを聴いたあとでは最早、すべてが当然、必然のように思え、落合由利子のことを知りたい、というよりはもう、彼女の独特なリズム感の語り、不意に訪れる沈黙と逡巡さえも含んだ彼女との雑談に身を委ねていること自体が快楽になって行く。
大学4年の時に卒業制作と並行して、映像プロダクションの入社試験や青年海外協力隊の写真教師としての試験に挑み、いずれも最終面接まで進むのだが最終的に採用とはならず「なんか、面接で熱弁をふるいすぎちゃってさ、今まで一番感動したことを訊かれて、インドの話を長々としゃべりすぎ」「でも、その映像プロダクションの面接官は、会社としては採用出来ないけれど、頑張って!って手紙くれたなあ」そして、スタジオ撮影や、ライティング技術を学びたい、と代官山スタジオに勤めたのちに、フリーランスの写真家として活動を開始した。
旅関係の雑誌を中心に仕事を続けていくなかで、26歳の年、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊。その時の気持ちを落合さんは、のちにこう記している。 「―――いまにも雪が舞いだしそうな低い雲のたれこめた空地。一人の黒いコートを着た男が、カラフルな絵や文字で埋めつくされた壁の前を歩いている。壁の向こうには色を失った東ベルリンの町が見える。その男は、人間の目からは見ることのできない天使だった。彼はひたすら歩く。壁に沿って黙々と―――」 「そう、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』 のワンシーンだ。正確にいうとその映画から私が得たワンシーンだった。あとで映画を見直してみると、そのようなシーンは存在していなかった。感動を反復するうちに出来上がった 『ベルリン・天使の詩』の私にとっての本質だった」「あの壁が崩れた、そしてあの周りの国々がどんどん変わる……。これはどうにかしなくては、頭の中でいつまでも天使が壁の前を歩いてはいけない。そんな気がした」「そして東ヨーロッパの国々に旅立つことを決めた。その土地や人々に出会って、話して、その手に触れてみよう。全てはそれからだと思った」 (落合由利子写真展 『働くこと育てること そして今』 @小平中央公民館ギャラリー のパンフレットより 2008)
「『ベルリン・天使の詩』のなかに、図書館でアウグスト・ザンダーの写真集『20世紀の人々』 をみつめるユダヤ人の老人が出て来たよね。ヨーロッパに行く時に、たとえばヨゼフ・クーデルカとか、アンドレ・ケルテスなんかの先人たちの仕事は意識してた?」 と訊ねると 「いやあ、それがさあ、あの頃の私はクーデルカ、知らなかったかも」 「映画からどんどんイメージが立ち上がって来て、自分独自のシーンを想像というか、作っていた」 「壁があって、その前をブルーノ・ガンツが演じる天使が歩いていて、その時は、そこが西と東の緩衝地帯ということも分かっていなくて、天使が死んで人間として生き返る」 「怖いイメージもあったよね。象徴的な沼のシーン」 「現地で撮影する時に、天使と自分、とか、天使と出会った人を重ねたりした?」 という問いかけには 「それは無かった。純粋に撮りたい人に声をかけて撮らせてもらった」
89年12月から翌90年2月までの3ヶ月、落合さんは 6 x 6 フォーマットのゼンザブロニカというカメラ、そして3歳年上のライター M.S.さんと共に、激動する東欧諸国、東西ベルリン、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを旅し、人々の様子を写真におさめて帰国する。そして、興奮冷めやらぬ間にフィルムを現像し、写真をセレクトし 『話したい』 と名付けられたポートフォリオを完成させた。当初は旅に同行したライターのM.S.さんが文章を書き、落合さんの写真と共著になる予定で企画はスタートした。しかしフランス語が堪能であった M.S. さんではあるが、ことばでその時に現地で起こったことを伝えるのは難しい、と落合さん単独のプロジェクトに変わっていったのだ。そして、そのポートフォリオに、ある出版社が興味を示し、写真集として出版が決まるのだが、落合さんが写真に添える文章を書き上げたところで、その会社は経営が難しくなり、出版は立ち消えになってしまった。
失意のなか、当時付き合っていた4歳年上の恋人との別れもあった。「絶対に自分のことを振らないと思っていた相手に振られたの」「私が彼のことを好き、よりも、彼の方がもっと私のことを好き、って思い込んでいたから」「ポートフォリオの制作に熱中している間に関係が悪くなっていって」 「『ボクは写真家の落合由利子と付き合っているんじゃない!』 って云われて、自分のことを認めてくれていると思い込んでいたのに」 「そしたらね、『私が、私が今一番したいことは、写真を撮ることなんかじゃない!子どもを産むことなんだ!』 って言っている自分がいて。えっ?なにそれ、そうだったの!? ってびっくりしたんだけれど。同時に心の中で 『でも、あなたの子供じゃない』 って思ってた。ぜんぜん辻褄があわないんだけど、ただ、このポートフォリオを作るのにちょうど9ヶ月かかってね、まさに妊娠みたいだったの」 「それが出版されなくなって、ダブルパンチだったよね」
91年に再び彼女はルーマニアを訪れることを決心する。「日本以外の場所に住んで、暮らしながら写真を撮る」ことをやらないと自分がダメになると思った、という。「自給自足の根源的な生活を見たかった」 とも。 ルーマニアに渡った落合さんは、前回訪問時にブカレストを案内してくれた工科大学の学生を訪ね、彼の叔母の知人たちが暮らす旧ユーゴスラヴィアとの国境近くの村、コルネレバに1人で40日間ほど滞在しながら写真を撮影した。「いろんなものを写真で探していた、求めていた」と彼女は語る。
そして、その時期、もうひとつ、彼女の人生の方向を決定づける出来事が起こった。コルネレバの滞在をアレンジしてくれた学生と恋に落ち、のちに安奈さんとして生まれることになる命を授かるのだ。さっきから話をしている喫茶店『珈琲館』のテーブルの上に、いま、 10 x 12インチの印画紙にプリントされた、30年前に撮影された2枚の写真がある。1枚は短い金髪の白人の青年が木立の前で、花束を持ってレンズに向かって微笑んでいる。もう1枚は、引き倒されて少し時間が経ってしまった、まるで棺の中で横たわっているかのような巨大なレーニンの銅像の胸にカメラを抱えて腰掛けた、20代に見える、少しお腹の膨らんだ東洋人の女性。「ANBの展示をやることになって、当時プリントしていなかった写真もいろいろ焼いてみた」というなかの、展示のセレクトに入らなかった2枚の写真。「写真を見るとその時の空気まで思い出すね」 「すごい良いところに連れていってあげる、といって連れていかれた場所が、この倒れたレーニン像が放置されていた場所で、雨が降っていて、薄ら寒くて、でも彼にとっては、私には想像もつかないような思いがあったんだと思うね」その2つの写真からは、何かの不在、とか、何かの影、といった雰囲気はほとんど感じられず、それぞれの時間と空間に 「私はしっかりとここに立っている」 「私は確かにここに存在しています」と無言のメッセージを発している人間がうつっている。写真の根源的な力、っていうのを感じるのはこういう写真に出会える時なんだよなあ、と率直に感じたボクは、なんだかとてもうれしくなった。
お互いに撮りあったという2枚の写真を見ているボクの胸には、じわじわと暖かいものがこみ上げて来ているのだが、そんなことはお構いなしに、落合さんは次々にプリントを差し出して見せてくれる。短い間だが、日本で暮らしたパートナーが海岸に佇み、快晴の空には飛行船が浮かんでいる。そして、2人が激しく喧嘩したあとの朝食後のテーブルに光が射し、空になった食器が輝いている。「朝の光、きれいだよね。椅子の上に立ってウエストレヴェルのブロニカのファインダーを覗きながら、写真を撮っていれば大丈夫、これをしていれば大丈夫、って思えたんだよ、この時」 さらに、笊を冠っている小さな男の子とマントを着た女の子が部屋で遊んでいる写真。「天使みたいだよね、この子たち。ザル聖人とキラキラ姫」
落合由利子《別れ、時はたえることなく−1》 2021 © Yuriko Ochiai
落合さんにこの取材を申し込んで快諾してもらい、どこで会うのが良いかしばらく考えて、やっぱりボクと落合さんが話す場所としては江古田が相応しいなと思ってそのことを伝えると、間髪を入れずに 「時間旅行だね!」 とメッセージが届いた。そのときボクは 「意外にセンチメンタルなことを言うんだな」 と勘違いしたのだが、落合さんの 「時間」 や 「旅行」 っていうのは、とてつもない柔軟性と強度をあわせ持った、ハードコアな、摩訶不思議な、でも同時にそれは、とても優しいイデアで、よくよく考えてみれば、ボク達はいつも「時間」と「旅行」のなかで笑って、泣いて、生きているんだな。『珈琲館』を出たボク達は日大の落語研究会の学生がバイトしている『備中家』という居酒屋で、終電まで酒を飲みながらバカ話に明け暮れ、江古田駅のホームから落合さんは所沢方面へ、ボクは池袋方面への電車に乗り、線路越しに 「またね!」 と手を振りあって別れたのだった。
落合由利子(Yuriko Ochiai)
1986年日本大学藝術学部写真学科卒業。私家版写真集「WINDOW’S WHISPER」にて日本大学藝術学部長賞受賞。主な写真展に「日本国ルーマニア人物語」(1997 フォーラム横浜)、「働くこと育てること」(2000〜2015 横浜女性フォーラム、他、全国40ヶ所巡回)、「絹ばあちゃんと90年の旅」(2014 瀬田4フィールドミュージアム)、「人権という希望-11人の写真家がいま、伝えたいこと」(2017東京都人権プラザ)、「わたしの旅のはじまりは、あなたの旅のはじまり」スクリプカリウ落合安奈個展共同展示(2021 ANB Tokyo)など。
著書(写真・文)に『絹ばあちゃんと90年の旅―幻の旧満州に生きて』(講談社)、『働くこと育てること』(草土文化)。共著に『ときをためる暮らし』(自然食通信社/文藝春秋)、『ふたりからひとり』(自然食通信社)、『若者から若者への手紙1945←2015」(ころから)などがある。