僕をつくったあの店は、もうない。
都築響一編『Neverland Diner 二度と行けないあの店で』(2021年1月刊)は、100名の書き手が、それぞれのスタイルで“二度と行けない店”について綴った珠玉のエッセイ集です。
そんなネバダイの世界をよりディープに味わっていただくべく、「ネバダイ・オーディオブック」として、本書に収録された100話のなかから作品をセレクトして、朗読版の音声トラックを週イチで無料公開していきます。
朗読者は、女優の冨手麻妙さん、タレント・ナレーターの茂木淳一さん、朗読少女・アズマモカさん。それぞれのスタイルでネバダイ珠玉の一篇を朗読していただきます。
道玄坂を転がり落ちた先の洞窟|スズキナオ(酒場ライター) ※冒頭文抜粋
数年前まで、渋谷の道玄坂を上りきった場所にあるビルの中のIT企業で働いていた。パソコンに向かい、仕事をしているふうを装ってウトウトしているか、どうしても眠気が引かない時は個室トイレにしゃがみ込んで寝る。とにかく眠くて仕方なかった。有能な同僚や競合他社ではなく、私のライバルは眠気だった。
なんとか終業時間までたどり着くと、道玄坂を転げ落ちるような勢いで降りていき、いつも「細雪」という居酒屋を目指すのだった。雑貨店やアパレルブランドが入ってオシャレな雰囲気の「渋谷マークシティ」のすぐ脇にありながら、まるでただの薄汚れた壁のような外観の店で、渋谷に通勤するようになって数年はその存在に気付くことすらできなかった。
寝てばかりいるダメ社員ぶりがある程度のレベルに達し、ようやく私はその店が見えるようになったのかもしれない。とうの昔に壊れたらしき自動ドアを手で押し開いて入店するシステム。常連客がそこに貼ったらしき「酒導ドア」というラベルの文字が記憶にある。
中に入ると予想以上に奥行きがあり、4人掛けのテーブル席が5つか6つ、奥の方には横長のテーブルがあり、そこはいつも常連客が陣取っていた。店の最奥の雑然とした厨房スペースでは、店主がビールを飲みながら料理を作っている。店主は酔ってくるとつまみを調理するのが面倒になり、最終的には客席に普通に座って飲んでいる。そんな時に誰かが「お会計!」と言うと、店主の代わりに常連客が立ち上がってレジから釣銭を取って渡す。そういう意味での自治がその店には働いていた。
酒もつまみも、渋谷の居酒屋の平均価格に比べてだいぶ安い。そして、安い割にどれを頼んでもしっかり美味しい。ホッピーセットを注文すると、ホッピーの瓶、焼酎と氷の入ったジョッキ、そしてもう一つ、なみなみと替えの焼酎が注がれたグラスがついてくる。このセットで何度も記憶を喪失した。
「細雪」に通い始めた当初、私が入店しようとするといつも追い返そうとするオッサンがいた。決まって入口近くの席に座っていて、私がドアを開けるなり、「もう満席だよ!」とか「今日はもう終わり!他に行きな」、「この店はまだ早いんだよ!」とか言ってくる。奥の方にまだ空席があるのに追い返される。「なんだあいつ!」、眠気以外に初めて意識したライバルがあのオッサンだ。門番のオッサン。
書籍情報
Neverland Diner 二度と行けないあの店で
都築響一 編
体裁:四六判変形/並製/カバー装
頁数:640頁(カラー写真頁含)
定価:3,300円+税
刊行:2021年1月22日
ISBN 978-4-910315-02-7 C0095